2014年6月1日日曜日

韓国の歴史

韓国にはB.C.2333年までさかのぼる悠久の歴史があります。先史時代から現代までの韓国の歴史を見ていくことにしましょう。

先史時代

考古学的な発見の数々により、約70万年前に韓半島(朝鮮半島)に人類が定住し始めたとされています。

古朝鮮(B.C.2333-B.C.108)

伝説によると、神話の中の人物である檀君(タングン)がB.C.2333に韓国最初の王国である古朝鮮を建国したとされています。その後、いくつかの部族が満州南部地域から韓半島に移動してきました。

三国時代(B.C.57-A.D.676)

韓半島とアジアの北東地域を中心に4世紀初め頃から7世紀中頃まで高句麗・百済・新羅が互いに争っていた時代を三国時代といいます。

高句麗

高句麗は韓半島の古代国家のうちのひとつで、百済・新羅と合わせた三国の中で最も大きな領土を有している国でした。朱蒙によりB.C.37年に建国され、韓半島の北部と南満州一帯を拠点とし繁栄しました。中国の諸王朝とも熾烈に争い領土を広げていきましたが、A.D.668年に新羅と唐の連合軍との争いにより滅亡しました。

新羅

新羅は三国時代の古代国家のひとつで、朴赫居世が韓半島南部に作った国です。B.C.57年からA.D.935年までの992年間国を守り、7世紀中頃に唐と連合し百済と高句麗を破り三国を統一しました。その後、唐は連合国から侵略国へと立場を変えました。これにより新羅は高句麗、百済からの流民と力を合わせ、唐の侵略勢力を抑え大同江~元山湾以南に韓国の歴史上最初の単一民族統一国家を建国しました。

百済

百済は三国時代の古代国家のひとつで、B.C.18年からA.D.660年まで国を守りました。高句麗の王族である温祚が韓半島の西南部に建国しました。洗練された発展した文化が花開き、特に日本に多くの影響を与えました。A.D.660年に新羅と唐の連合軍により滅ぼされました。

統一新羅時代と渤海

統一新羅時代(676-935)

統一後の新羅は文化・芸術の興隆に努め、特に仏教文化はこの時期に黄金期を迎えます。しかし、貴族層の間での覇権争いにより次第に国力が衰退していき、結局935年に高麗に併合されてしまいました。

渤海(698-926)

渤海は高句麗が滅びる頃に誕生しました。渤海は、高句麗の将軍である大祚栄将軍が高句麗の難民たちからなる兵士たちと共に建国した国です。一時期は、渤海は失われた高句麗のかつての領土を取り戻し、中国の北東地域までを占める領土を有するほどの国力を保持していました。その当時、中国の唐は渤海を「海の東に隆盛した国(海東盛国)」と呼ぶほどでした。その後、926年に契丹により滅亡しました。

高麗時代(918-1392)

高麗は、王建により918年に建国されました。この時期、国教として定められていた仏教は、政治と文化に大きな影響を及ぼしながら更に発展しました。高麗青磁やユネスコ世界文化遺産にも指定されている八万大蔵経板、直指心体要節などの重要な遺産もこの時期に作られました。特に、直指心経要節は世界最初の金属活字で印刷された仏教経典で、グーテンベルク聖書よりも78年前に作られたものです。そんな高麗も14世紀後半からは次第に国力が衰えていき、易姓革命によって無くなりました。

朝鮮時代(1392-1910)

朝鮮は、14世紀末に建国されました。高麗の将軍であった李成桂が高麗を倒し、現在のソウルを首都としました。儒教が国の基本理念となり、朝鮮社会全般に大きな影響を与えました。1443年には世宗大王によりハングルが作られました。

日帝時代(1910-1945)

1876年、朝鮮王朝は日本から門戸を開放するよう強要され、1910年に日本により併合されました。そして、1945年に日本の降伏により第二次世界大戦が終わるまでの間、韓国は日本の統治を受け続けました。

韓国政府の樹立(1945-1948)

1945年8月15日に韓国は日本の統治から解放されました。しかし38度線を境に南韓(韓国)と北韓(北朝鮮)に分断され、南北はそれぞれアメリカとソ連の臨時的な軍事統治下に置かれることになりました。1948年5月10日に国連の支援の下、韓国では大統領選挙が行われ李承晩が大統領に当選しました。そして同年8月15日、韓国政府の樹立を知らせる公式宣言が発表されました。一方1946年2月、北韓は金日成を中心とした北朝鮮人民委員会を組織し、1948年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国を樹立しました。

韓国戦争(朝鮮戦争、1950-1953)

1950年6月25日の明け方、北韓は38度線を越え南への侵攻を強行し南北を武力をもって統一しようとしました。これを受け、共産主義勢力から韓国を守るためダグラス・マッカーサー国連軍最高指令官の指揮の下、世界16カ国からの軍事的支援が投入されました。一方、中国とソ連は北韓に軍事的支援を行ないました。戦争は3年間続き、1953年7月27日にDMZに位置する板門店で休戦協定が結ばれ終戦となりました。戦争は韓半島を荒廃させただけでなく、南北間の敵対感情を高め、統一をより一層難しいものにしました。

韓国戦争後(1954-現在)

1954年、李承晩政府は反共産主義政策に集中しました。不正な長期執権に対抗して、1960年に学生たちの反政府運動である4・19革命が起こり、李承晩政府は倒れました。 そして1960年6月23日に選挙法が作られ、大統領に尹潽善が選ばれました。しかし1961年5月16日の軍事政変により倒れました。
それにより権限代行をしていた朴正煕は、1963年に大統領に当選し、17年間に及ぶ独裁統治を行ないました。朴正煕大統領が推進したセマウル運動(1970年に始まった全国民的近代化運動)により韓国は大きく発展し、経済発展のための体系的な管理統制による輸出の増大など数々の成果を残しました。しかし、民主化運動を進めようと政権の延長に反対する市民たちが増えていきました。その後、1979年に暗殺されたことで朴正煕時代は最期を遂げました。国務総理であった崔圭夏が大統領に選出されましたが、全斗煥中心とした政治勢力による圧迫でわずあ8ヶ月で幕を引くこととなりました。
その後、1980年に政権を握った全斗煥大統領は、前大統領の統治方式を引き継ぎ権威主義的な体制を維持しました。しかし民主化運動などの顕著な国民の民主化に対する思いにより、大統領直選制改憲を受容し、1988年の任期終了とともに政権から退きました。
1988年、盧泰愚政府はソウルオリンピックを成功裏に開催し、順調に政権をスタートさせました。そして、1991年には国連への加入を果たしました。
1993年からの金泳三政府は、金融取引時に実名を使用するようにする金融実名制を新たに施行し、これは当時は大々的な改革でした。
1998年に大統領に就任した金大中大統領は、1997年に起きたIMF金融危機の克服に全力を尽くし、また2002年にFIFAワールドカップを成功裏に誘致しました。北韓に対しては太陽政策を行ない、金大中大統領はこの功績が認められ2000年にノーベル平和賞を受賞しました。
2003年からの盧武玄政権は、国民の政治参加こそが政治を行なう上で核心的な役割を果たすという参与政府を目指しました。若く改革的な新しい人事政策と過去の権威主義の清算、市民社会の成長などは盧武玄大統領の代表的な成果であると評価されています。また盧武玄政権中には、第2回南北首脳会談も行なわれました。
2008年に韓国の第17代大統領に就任した李明博大統領は、変化と実用をモットーに公企業の民営化、自由貿易協定(FTA)などを積極的に推進しました。2012年までにG20首脳会議、核安全保障サミットなど重要な国際的行事を成功裏に開催しました。
一方、北韓は2011年12月、17年間政権を握っていた金正日の死去後、その息子の金正恩が権力を継承しました。 1972年7月4日、南北は韓半島の統一に関する共同協議書に署名(1972年7月4日)以降、1998年には韓国人の金剛山観光の許可や、2000年と2007年の2度に渡り開催された南北首脳会談などを通し、南北間の平和共存および統一に向けた努力を続けています。 
2013年2月25日に就任した朴槿恵大統領は、韓国の第18代大統領であり、韓国政府樹立以降、初の女性指導者です。第5~9代大統領である朴正煕の娘でもあります。朴槿恵政府は公正取引確立と政治・国会・警察の改革を最優先としています。また家計負債の解消や青少年失業対策に取組み、福祉政策など力を注ぐ方針です。
最終更新日:2013年7月4日
資料:韓国観光公社

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